大人のがん教育
皆さんは、がん対策基本法の中に「社会教育」という言葉が記載されたことをご存知ですか?これは、「子供たちにもがん教育を」という議論がおきた際に、学校を卒業した大人に対しても同様な教育、情報提供は必要なのではないかという意見が出され、社会全体でがん対策を進めていくためにも重要という観点から、「社会教育」としての「大人のがん教育」の必要性が明記されるようになりました。学校でも職場でも、そして、地域の中でも、がん患者、家族が抱える様々な「生きづらさ」を解消するためにも、「知識を得て、生きる力の源にしていく」ということは、大変重要な考えだと私は思っています。しかしながら、その内容については、「子どものがん教育」とは異なるアプローチをする必要性があるのではないかとも考えています。
がん治療の進展とがんのイメージ
がん治療は、ここ十数年で大きく進歩を遂げています。私は2004年にがんの診断を受け、治療を受けましたが、その頃のがん治療形態は、入院をして治療することが主流でした。治療を受けた病院でも、手術から治療方針が定まるまで(病理の結果がでてくるまで)、3週間程度は入院しましたし、抗がん剤も1回目は必ず入院をしていました。また、二回目、三回目の抗がん剤も、患者が望めば、入院して受けることもできました。
今では、外来化学療法室と呼ばれる場所で、日帰りで抗がん剤治療を受けることが主流になっています。平成29年(2017)に発表された厚生労働省の「患者調査の概況」の平均値(悪性新生物)は平均在院日数が16.1日にまで短縮化されています。つまり、二週間弱です。このように、がんの医療技術は2000年代に入ってから大きく進歩をしました。部位による違いはありますが、がんの治療成績を表す指標の一つでもある5年相対生存率も、53.2%(1993年~1996年の診断)から67.9%(2008年~2010年の診断)へと、この十数年で10%ほど改善されています(国立がん研究センターがん対策情報センター)。
ところが、こうした医学技術の進歩とは異なり、一般社会が持つがんのイメージは一向に改善されていません。
平成26年度に行われた「がん対策に関する世論調査(内閣府)」では、がんに対する印象について、「どちらかといえばこわいと思う」、「こわいと思う」と答えた者(1,339人)を対象に、その理由を聞いたところ、「がんで死に至る場合があるから(72.9%)」が最も高く、以下、「がんそのものや治療により,痛みなどの症状が出る場合があるから(53.9%)」、「がんの治療費が高額になる場合があるから(45.9%)」、「がんに対する治療や療養には,家族や親しい友人などの協力が必要な場合があるから(35.5%)」が上位4位となりました。つまり、「がんを怖いと思う」のは、「死ぬかもしれない」だけではなく、「人に迷惑をかける」、「治療費が高い」という社会的な理由が関係しているのです。
この調査では、「がんの治療や検査のために2週間に一度程度病院に通う必要がある場合、働きつづけられる環境だと思うか」という質問も行っていますが、「そう思う(28.9%)」、「そう思わない(65.7%)」と、世の中の7割の人は、「がんと職業生活の両立は困難」と感じているのです。
「Patient Shoes」が目指す「インクルーシブ・デザイン」
医学の進歩に比べて、社会の認識の変化は遅々として進んでおらず、社会啓発はまだまだ届いていないのが現状です。特に、病気は、なってみないとなかなか自分事として考えることもできませんから、現実とイメージの間にギャップが生じてしまうのは無理のないことかもしれません。しかしながら、このギャップの中で患者や家族は生きづらさを感じており、予防とあわせて知識を身に着けていくのが「がん教育」の役割になります。
2018年に閣議決定された「第三期のがん対策推進基本計画」の中で、医療機関の中だけではなく、「地域を含めた労働行政、民間企業などに関するがん対策への取り組みに関する記載が増えた」ことも、これまでのがん対策からの大きな変化であると私は思います。
例えば計画の中には「健康経営」という言葉が登場します。これまで、企業に求められるがん対策といえば、職域検診に代表される「早期発見・早期治療」です。しかし、今では、厚生労働省による働き方改革実行計画の中にも、そして、第13次労働災害防止計画の中にも「両立支援」という言葉は加わりましたし、経済産業省が進める「健康経営銘柄」の評価項目にも「両立支援」という概念が入っています。このように少しずつではありますが、企業の中に、そして、社会の中へ、「両立支援」を問う言葉は浸透をし、「大人のがん教育」は進みつつあります。
子育て、介護、治療、LGBT、障がい者など、今の人事はやらなければならない対策がたくさんあります。その一つとして、病気から働き方改革を進めていくことは(休み方改革ではなく)、多様な人材、価値観がうまれ、「お互い様」を知ることができるのではないでしょうか。
私が代表を務めているキャンサー・ソリューションズ株式会社でも、企業向けに「大人のがん教育」研修を行っています。その私たちのビジョンは「インクルーシブ・デザイン」です。インクルーシブ・デザインとは、簡単に言えば「包括的なデザイン」のことを言います。私たちが企業向けに「大人のがん教育」を展開するときには、一般的ながんの疫学知識の伝達に加えて「個人で何ができるか」、「企業体として何ができるか」を必ず考えてもらいます。名付けた研修の名前は「Patient Shoes」。つまり、「患者さんの靴を履いてみよう」という意味です。
ただ単にがんの知識を渡し、「勉強になりました」、「感動しました」で終わることなく、「もっと行動変容に直接影響するようなものを」、「患者の生きづらさを改善するサービスの開発を」と考えた、この研修の始まりです。涙を流す話ならいくらでもできます。でもそれでは社会は変わらない、企業は変わらない。企業にサービスを考えさせ、実装化していくことが、「Patient Shoes」が目指している「インクルーシブ・デザイン」であり、私たちが目指している「大人のがん教育」です。
桜井なおみ
キャンサー・ソリューションズ株式会社 代表取締役
社会福祉士・精神保健福祉士・技術士
キャンサー・ソリューションズ㈱は、東京大学医療政策人材養成講座4期生桜井班が中心となった調査研究「がん罹患と就労」で行った政策提言や課題解決を行うために立ち上げた、社会貢献型の株式会社である。桜井氏はがん経験者として患者目線のがん政策提言をはじめ、多くのがん患者の雇用を支援している。一般社団法人全国がん患者団体連合会の理事も務める。
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